「僕は約束した。僕は弾かねばならない。。。」
ピアニストであった、ディヌ・リパッティが、生涯で最期の演奏会直前に残した言葉です。
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ディヌ・リパッティは、第1次世界大戦が終わった1917年に、ルーマニアに生まれたピアニストです。パリ音楽院に留学し、ピアノをコルトー、指揮法をミュンシュに、作曲法をナディア・ブーランジェに学びました。ショパンやモーツァルトを中心に名演を残しましたが、悪性リンパ腫に侵されてしまいました。長年の闘病により体力を消耗しつくし、1950年に敗血症で亡くなりました。わずか33歳。
リパッティのピアノは、透き通るような瑞々しさ、気品に満ちた高貴さ、繊細さで語られることが多いのですが、私は必ずしもそう思いません。特にショパンのワルツには、悪戯っ子のようなやんちゃさも見え隠れします。死から50年以上経っても彼のピアノが人々から忘れ去られずに居るのは、彼のみが持ち得たそうした唯一無二の魅力故でしょう。
レコード技術がようやく発達し始めた1940年代後半(大戦終結直後)には、彼の体はすでに病魔に冒されていました。すでにスタジオ録音に耐える体ではない。。。誰もがリパッティのピアノ録音を諦めていた頃、画期的な新薬であるコーチゾンが開発されます。コーチゾンにより、リパッティの病状に一時的な小康状態がもたらされます。1950年5月のことです。これを見た主治医はすかさず、「リパッティのピアノ演奏録音を至急行ってほしい」と、レコーディングプロデューサー(EMIのウォルター・レッグ氏)に連絡、レッグ氏はすぐに最新の録音機材全てとともにジュネーブに飛びます。
なぜこれほどまでに皆急いだのか?リパッティのピアノ録音を遺す最後のチャンスだったからに他なりません。コーチゾンをもってしても、小康状態が維持できるのはせいぜい2ヶ月程度。残された時間はほとんどありません。しかもコーチゾンは大変高価な新薬であり、簡単には必要量を確保することはできません。それを知った世界中のファンや音楽家(メニューイン、ミュンシュなど)から寄せられた資金によりコーチゾンの必要量が確保されます。ショパンのワルツ全14曲、バッハ、モーツァルトの作品群がわずか10日足らずで録音されました。
その後もリパッティは精力的に音楽活動を続けますが、コーチゾンの薬効はほどなく切れることとなります。そして、1950年9月16日、リパッティがおこなった人生最後の公開演奏である、「ブザンソン告別演奏会」が開かれます。
リパッティの病状は末期を迎えていました。余命をさらに縮める事になると、主治医はコンサートを中止するよう必死の説得を続けます。しかし、リパッティの意志は固く、説得に全く応じません。「私はファンに約束したのだ。その約束を守る事は私の天命なのだ」「僕は約束した。僕は弾かねばならない。」と繰り返すばかりだったそうです。ジュネーヴから救急車のような寝台車でブザンソンに到着したとき、彼は気を失っていたといいます。息をすることも困難で、開演一時間前には意識が朦朧とするなか、鎮痛剤を何本も打って、彼はコンサートに臨みます。リパッティ本人だけでなく、家族、聴衆、すべての人が最後の演奏会であることを知ったうえでの演奏会です。
開演時間、リパッティは自分で歩くこともままならぬほど衰弱していながらも、夢遊病者のように小さな足取りでピアノに向かい歩んでいきます。そして、彼が愛したバッハ、モーツァルト、シューベルト、ショパンのワルツを演奏していきます。死に瀕し激痛に絶え間なくさらされている人間とは思えないほど、美しく、凛とした演奏です。しかし、リパッティの体はすでに限界を超えていました。残された力を全て振り絞っても、演奏会プログラム最後の曲目であるショパンのワルツ2番「華麗な大円舞曲」を弾く体力は残っていませんでした。ついに力尽きたリパッティは、最後の1曲を残して舞台から運び出されます。
会場に詰めかけていた人々はだれもが、これがリパッティ最後の演奏だと悟ります。しかし、リパッティの意志は、これをもって最後とすることをよしとしませんでした。
やがて、リパッティは自力で舞台に歩いて戻ってきます。そして、ピアノに座ると、バッハのコラール「主よ、人の望みの喜びよ」を静かに弾きあげ、舞台から去っていきました。突然のことで、このコラールは録音されませんでした。この場に居合わせた人たちのみが、この演奏について知り得たことになります。いかなるCD・レコードにもこの演奏は残されていませんが、これでよかったのかもしれません。
その後、リパッティはジュネーブの自宅で静かに死を待つこととなります。起き上がることも、話すことすら困難な中、死の30分前、ピアノに向かって、ショパンの前奏曲(何番かはわかりません)と、バッハの『シチリアーナ』を弾き、やがて敗血症による大量出血、そして息を引き取ったと言われています。1950年12月2日のことでした。
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リパッティの妻である、マドレーヌ・リパッティによる文が残されています。
『ブザンソン告別演奏会の録音によせて』
この感動的な録音を聴くとどんな人でも無感動でいるわけにはいきません。
それは1950年9月16日、ブザンソンで行われたディヌ・リパッティの最後のコンサートにおいて録音されました。短かったけれども、輝かしかったあの人のキャリアの最終点でした。あの人は2ヶ月後の12月2日に33歳で死ぬ運命にあったのでした。
大変病気が重かったのに、あの人はブザンソンで演奏するという、この約束、この契約を守りたいと念願していました。それほど、「約束に背きたくない」というリパッティの決意は固かったのです。
あの人にとってコンサートは音楽に対する、あの人の愛の誓いでした。それを、あの人は「重大なこと」であると考え、音楽を通して、あの人の演奏を聴きたがっていた大勢の人々に喜びを与えたいと願っていました。
あの人はすっかり衰弱して憂慮すべき状態でコンサートの夕方、ブザンソンに着いたので、ピアノの手ならしをするために、演奏会のサル・デュ・パルルマンへ行くのさえやっとのことでした。
ホ
テルに戻りますと、あの人に付き添ってきた忠実な友人でもある主治医がもう一度、思い止まらせようとした程、病状は進んでいました。でも、リパッティは頑
強に「ぼくは約束した。ぼくは弾かなければならない!」と繰り返すだけでした。あの人は元気付けの注射を何本もうたれました。それから、自動人形のよう
に、服を着替え、ホールへ連れていってくれる車までゆっくり進んで行きました。階段を上がる事があの人には本当に磔刑場(カルヴェール)のようでした。あ
の人は息がつけなかったのですから。失神するのではないかと思いました。
爆発的な喝采がホールに辿り着いたあの人を迎えました。各地から聴きにきた聴衆は胸が一杯でした。
聴衆は死に掛かっていた---本人も死期を悟っていた---この若い天才の最後の演奏を聴くために集まっていたのです。
この録音のおかげで、私たちは今あの人の演奏の特質、あの人の思考の誠実さ、あの人の解釈の妥当性を判断することが出来ます。
一瞬だけ弱みを見せましたが、何という感動的な一瞬でしたでしょう。
---あの人にはもはや14曲のワルツのうち最後の1曲を弾く力がなかったのです。
でも、ショパンでさえ、それを許してくれた事でしょう。
疲労の為、くたくたになって、息を切らせながら、それでもリパッティは彼にとって祈りであったバッハのコラールを弾く勇気を持っていました。
そのコンサートにいた人なら、あの心を掻き毟るような訣別を忘れる事はできないでありましょう。
しかし、「あの死滅した星が、その光輝によって尚、我らに光を与えてくれるように」リパッティの芸術は私達の心に生きています。
その托(ことづけ)はいつまでも残る教訓であり、喜びなのです。
「ディヌ・リパッティ 伝説のピアニスト夭折の生涯と音楽」
Copyright MADELEINE LIPATTI
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「ブザンソン告別演奏会」でのリパッティの演奏は、最後のコラールを除き、現在、CDで聞くことができます。
「ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル」(EMI)
素晴らしい演奏には間違いありませんが、直前におこなわれたスタジオレコーディングに比べると、特にコンサート後半でミスタッチや揺らぎがあることは否めません。だからといって、この演奏の価値が劣るわけではありません。「奇跡」とか「感動」というような言葉では決して言い表せない、人間の意志の力がなしえることのできた所業と、それが人に与えることのできる勇気、それを思わずには居られません。
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