トップページ | 2008年12月 »

2008年11月

2008年11月28日 (金)

湧別原野オホーツククロスカントリースキー大会

雪が積もると、なんとなくテンションが上がります。
それに寒さが加わると、なおさらです。
ふんわりと粉雪が積もって、しかも気温マイナス20度なんてことに
なったら、子犬のようにそこら中雪だらけになって駆け回りたく
なりますhappy01

雪好き寒さ好きが高じて、昔、無謀な挑戦をしたことがあります。
ずぶの初心者が、いきなりスキーマラソン大会出場!
しかも、コース距離85km!....なに考えてんだろ(笑)

きっかけは、家でぼーっと見ていた国営放送ニュースでした。
ニュースで流れていたのは、すっかり日も落ちて暗くなった中、
コースの両脇で燃えさかるかがり火(たいまつ)に照らされて、
クロスカントリースキーで走り抜ける人たちの映像でした。
しかも、北海道の中心にある大雪山からオホーツク海まで
85kmを自分のスキーだけで駆け抜けるという。。。。
その大会の名は、
湧別原野オホーツククロスカントリースキー大会」と
いいます。

。。。。次の日、市内の山道具屋で、競技用のクロカンスキー一式
買い込んでいました。クロカンスキーは生まれて初めて。
ただ、足一本で北海道の屋根から海まで走りぬけることに
無性にロマンを感じ、松明の火の中をゴールするのを夢見て。
その日のうちに、スキー大会に参加エントリー。
距離はもちろん85km。

次の日、市内のクロカンコースに行き、周囲の人たちの滑りを
見よう見まねで覚えて、5kmのコースを走ってみました。

ヤバイ。5kmですら満足に走れない。。
ペースは上がらず、坂で転び、2時間近くもかけてなんとか
ゴールすることができましたが、あまりにも前途多難。
ひたすら呆然としましたが、大会を諦めようとは思いませんでした。
その後、結局、練習2回、一番滑った日でも全長10kmという
あまりに準備不足な状態で、大会当日を迎えました。

スキーに塗るワックスについてほとんど予備知識がなく、
当日はスタート地点の朝の気温マイナス20度、昼の最高気温
マイナス10度というような極寒の条件に、0度用のワックスを
塗るという大失態。
スタート後は、全く滑らないスキーに悪戦苦闘しつつ、
ひたすら85km先のゴールを目指します。
少年達に抜かれ、自衛隊の皆さんに抜かれ、
お爺さんたちにも抜かされという、めげそうな状況を
救ってくれたのは、沿道で地元の人たちがしてくれている
炊き出し?でした。
おにぎり・豚汁、美味しゅうございました。
蕎麦、美味しゅうございました。
ホットドック、美味しゅうございました。
焼き鳥、焦げておりました。。。いやいや冗談(笑)

疲労でボロボロになりながらも、ゴールにかなり近い湧別という街に
たどり着いた頃には、もう夕方になっていました。。
ランナーズ・ハイの状態になっていたこともあり、
ペースアップを図ろうと気合いを入れ直したところで
私は思わず足を止めてしまいました。

すっかり傾いた陽は、真っ白な雪原を眩い金色に照らし、
あたりは一面に宝石を蒔いたようにキラキラと輝いていたのです。
そして、自分の影だけが、雪原のはるか彼方まで細く伸びています。
陽が沈むにつれ、雪原は赤く染まり、
やがて紫色へと移ろっていきます。
もちろん空も。
あまりに美しい景色に、ゴールまでまだ距離があるのも忘れ、
しばし見とれてしまいました。

気がつけばすっかり陽も落ち、コースの両脇にはかがり火が
ともりはじめました。薪(まき)の燃えるパチパチという音の中
普通に歩いたほうが早いんじゃないか、というようにノロノロと
スキーを進め、ゴールを目指します。
そして、赤々と灯るたくさんのかがり火に迎えられ、
ようやくのゴール。
早朝に大雪山をスタートしてから、9時間以上が過ぎていました。

体はこれ以上動けないほど疲れ切っていましたが、不思議な
充実感に包まれたことを覚えています。

あれからもう10年余りが過ぎました。
コースが災害に見舞われたため、この大会はコース距離が
最大50kmと短くなってしまったと聞いています。
自分自身も、初参加以降はスケジュールが合わず、
その後は大会参加できずにいます。
でも、いずれまた、同じコースを冬の晴れた日に
駆け抜けてみたいと、願っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月24日 (月)

すっかり雪景色!

私の住んでいる街、ここ数日でさらにぐっと冬らしくなりました。
頻繁にお世話になっている研究所のあたりも、すっかり
雪景色。。。
F1000011















これでも一応は札幌のど真ん中。
もうしばらくしたら、真っ白けの雪原になるでしょう。
息も凍るような朝、ふわふわの雪を踏みしめて歩く日が
待ち遠しいです。冬ダイスキ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月23日 (日)

札幌彷徨 part.3 梅屋のシュークリーム&エクレア

もう一つがこれ、梅屋のシュークリームとエクレア
F1000004














まずはシュークリーム。
牛乳たっぷりで、すごく濃厚な味なんだけど、不思議とくどくない。
これで1個130円(価格はうろ覚えだけど、大体これくらい)は
はっきり言ってお得だなぁ。

エクレアも昔ながらの味。ふわふわのシュー生地と濃厚なクリーム、
しっかり目な味のチョコ。どれをとっても絶品です。
確か、一個150円だったかなぁ。

札幌でなにか美味しいものはないか?と聞かれれば
私は、「ふたくちーず」と「梅屋のシュークリーム・エクレア」を勧めてます。
買った人が例外なく喜んでくれるのが嬉しいですね。
探してでも買う価値ありです。

梅屋は本当は旭川のお店なんだけど、札幌にも店を出してます。
旧そごう(今はユニクロやビックカメラが入っているビルです)の
地下1階にあります。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

札幌彷徨 part.2 煉瓦屋の「ふたくちーず」

そして、札幌駅前をうろついたもう一つの理由がこの2つ。

まずは、煉瓦屋のスイーツ「ふたくちーず」
F1000005













大きさは3cm×4cmくらいで、本当にふたくちで食べられそうな感じ。
小さな小さなレアチーズケーキです。
ややしっとり目のタルトの上に、レアチーズ、サワークリームが乗っています。
さわやかな甘みとかすかな酸味が絶品です。
クチコミで有名になってしまい、私が東京へ行く時には、
お土産にこれを指定されるくらい。

地下鉄さっぽろ駅の改札口近くにある小さな店「煉瓦屋」で
売ってます。
小さな店なので、見逃してしまうかも。。。
って、見逃してください。私が買えなくなってしまう(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

古書街!

こないだ、友人の結婚式ついでに札幌の街をふらついてきました。
うれしかったのがこれ!F1000003














いつの間に出来てたんだろ、これ。
札幌以外の書店がいっぱい参加してて、2度とお目にかかれない
ようなブツがいっぱい。しかも、不思議と安い。札幌市内の
古書店で買うと2倍くらいの値段のものもあるし。

こういうものは一期一会。
古い映画のパンフ、廃盤になった音楽書、山岳書。。。
ついつい買いすぎてしまいました。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年11月15日 (土)

タイトルの由来

このブログのタイトル「雪降る国、銀降る国」ですが、
由来になったエピソードがあります。

プロフィールにあるとおり、私は粉雪の降る国に住んでおります。
日本に雪降る地方は多いですが、サラサラの粉雪が降るところは
限られてますね。
そう、生キャラメルと、じゃがポックルと、白い恋人~♪ の国です。

ある年の真冬のこと。
私は、その国で、雪に埋もれた、深い山の中で、一日中仕事していました。
その日は朝から吹雪。日も暮れ始め、さぁ帰ろうという時になって、
吹雪がいっそう酷くなってきました。

気温はマイナス20度以下。非常食も燃料も無いので、
なんとか下山するしかありません。
でも、視界は限りなくゼロ。今と違いGPSが普及してない時代。
朝に自分がつけてきた足跡・スキーの跡も見事にかき消されており
それをたどって戻ることもできない。。。
猛吹雪の中、約8時間歩き続け、磁石とカンだけを頼りになんとか
里まで降りてくることができました。

里は、嘘のように静かな月夜でした。
雪原は月明かりで銀色に輝き、
風で舞い上がった氷片は
やはり月明かりでキラキラと星のように銀色に輝きながら舞い、
ゆっくりとまた降ってきます。
銀の粉が静かに舞い降るように。。。

Pc080217a














腹も減ってるし、服も凍り付いて体も冷え切っているのに
気がつくと何十分も、雪の上に座って、この美しい景色を
眺めてました。。。。

このブログの名前は、この時の風景、
一生忘れられないほど鮮明に記憶に残っている風景から
とっています。(写真で伝えきれないのが残念です。)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年11月13日 (木)

Starless

「Starless」という曲があります。
私がどうしようもなく落ち込んだとき、どうしても聞きたくなる曲です。

King Crimson(キング・クリムゾン)というバンドをご存じでしょうか?
1960年代後半に、ロックやジャズの凄腕ミュージシャン達でバンドを
結成。プログレッシブ・ロックという音楽分野を確立し、
一時的な活動休止はあるものの、今も現役です。

Starlessは、彼らの7作目のスタジオアルバム「Red」の最後を飾る曲です。
この頃の彼らは、当時のロック界で最強と言ってもいいような
メンツで活動していました。
ただ、その彼らをもってしても、当時彼らが目指していた音楽を
作り上げることがどうしてもできない。。。
そんな絶望感が、バンドを率いていたロバート・フリップを
押しつぶそうとしていたようです(他のメンバーはそんな
彼の状況に全く気づいていなかったようですが)。
アルバム「Red」をリリースすると同時に、フリップは
King Crimsonの解散を一方的に宣言。
バンドはその後7年間にわたり、眠りにつきます。

Starlessは、想像を絶するような絶望感に埋め尽くされています。
曲の最初は、静かにフェードインする、哀愁に満ちた

主旋律(主題)が、メロトロンで綴られます。
これほど美しいイントロを聴いたことがない、しばしばそう形容された
美しいイントロです。
やがて、ジョン・ウェットンの憂いに満ちた歌声。
「Sun down dazzling day(眩いばかりの日没の日)」
「Starless and bible black(星ひとつない、聖なる暗黒)」、
イアン・マクドナルドとメル・コリンズの悲しげなサックス。
美しいのに、救いのないほどの孤独感に溢れた夕景を思わせます。
誰かと共に見る美しい夕景ではない。。。

ただ一人、孤独に包まれて見る陰惨な夕景でしょうか。。。

やがて日は暮れ、静かな夜を迎えます。
ウェットンの地の底まで沈み込むような暗いベースラインを追って、
ロバート・フリップの軋むようなギターが、
次第にテンションをあげながら続きます。
子供なら居たたまれず泣き出すような、
鬼気迫る緊張感が、さらに満ちあふれていきます。
星一つない、見渡す限り一片の光明もない漆黒の夜を
一人彷徨い歩く。。。次第に得体の知れない恐怖が
ありとあらゆる方向から忍び寄ってくる。。。

そして、緊張が極限まで達したその瞬間、
サックスが堰を切ったように突然荒れ狂います。
自分を取り囲む全てが突然崩壊し、雪崩をうったように
暴風の中に放り込まれたような、ほぼ錯乱した感覚。

嵐は突然終わりを迎え、前奏で現れた主旋律(主題)が
再び現れます。
ただ、前奏と旋律はほぼ同じなのに、エンディングの主題には
哀愁はそれほど感じられません。
代わりにあるのは、儚く、哀れで、とてつもなく重く、
一切の救いのない圧倒的な絶望感です。
あまりに美しく、あまりに圧倒的なエンディング。

そして、静かでありながら重くフェイドアウトする余韻とともに、
曲は終わりを迎えます。
この余韻からはなぜか、僅かな希望が感じられます。
自分にとって大事なもの全てを引きはがされ、
耐えられる者など誰もいないようなとてつもない絶望に
突き落とされた中で、ただ一つ残った希望。。。。
唯一つ手元に残された自らの命=希望なのかも知れません。。。

漆黒の夜、暴虐の嵐が過ぎ去ると美しい朝日が訪れた。。ではなく
暴虐の嵐が過ぎ去ると、朝日の中、愛する人の亡骸が

横たわっていた。。。。この曲をそう表現した人がいます。
自分の死ではなく、自分の最も大事なものの死。
そこに充満するのは、やはり絶望以外のなにものでもありません。

12分以上もの長さにわたる大曲なのに、全く長さを感じさせない
圧倒的な曲です。

私はどうしようもないほど深く落ち込んだとき、

この曲を大音量で聞きます。
そして、自分が浸っている絶望感の卑小さを徹底的に思い知らされ、
やむなく無言で立ち上がり再びヨロヨロと歩き出す。。。
そんなことがこれまでの人生で何度もありました。

単なる音楽、曲ではない。一種の哲学が具現化したもの
そういっていいかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月12日 (水)

行きたいところ。。。。

行きたいところ、実はまだあるのです。
ヒマラヤ山脈の西に、バルトロ氷河という世界でも最大級の
氷河があります。
その最深部にある、K2という山。標高8611m。
山好きな人の間では、エベレストよりも登るのが難しい山と
言われています。

雪と氷の大地の奥で、全てを超越するようにそびえるK2に
昔からあこがれ続けてきました。
行けるものなら行ってみたい。。。。。。
K2a_2











K2b_2















ただ私、ある時、山に登っていて標高3000mを超えたあたりで
呼吸がヤバクなり緊急下山する、という自体に陥ってしまいました。
特に急ぐでもなく、薄い空気を感じながらゆっくり登っていたのに。
一度ならず2度までも。
どうやら、高所にかなり弱い体質のようです。。。。

K2、麓であろうと、日本のどこよりも高い場所になります。
行くとなれば、酸素ボンベと緊急時の手はずを準備しつつ
本当に命がけで向かうことになるでしょう。

そこまでしても、行く価値のある場所と思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ステンドグラス好き

国内・海外に行く機会はわりと多いけれど、
仕事で行くので、行きたいところにいけません。
行きたいけどまだ行けていないところ、
そんなこんなでいっぱいあるのです。

○ノートルダム寺院(パリ)
ステンドグラスが好きで、世界中のステンドグラスの
情報集めてますが、ここのステンドグラスが、
格調や色合い、歴史の重みを感じさせてくれて
一番好きです。Nortedame7














こんな素敵な景色の前で、一日瞑想に耽ってみたい
ものです。

ノートルダムといえば、カナダのモントリオールにある
ノートルダムも圧巻らしいです。

Notredame_canada














○ティファニーのステンドグラス
宝石やアクセサリーで有名な「ティファニー」。
創業者の息子のルイス・コンフォート・ティファニーが
ステンドグラス(厳密にはガラス工芸)に入れ込んでいた
ことは、意外と知られていません。
ニューヨークのセント・ジェームズ・エピスコパル教会に
ティファニーの手によるステンドグラスがあると
聞いていましたが、偶然見たテレビ番組で
それが取り上げられていました。

ガラスに絵の具を塗るのではなく、
中世と同じ手法で、ガラスそのものに色を混ぜ込んでいく
方法にこだわり、青・緑・黄色など様々な色が
ある時は濃く鮮やかに、ある時は淡く混ざり合い、
とても優しい光をもたらしています。
ステンドグラスで風景画を描くというのも彼ならではです。
Tiffany


















ライプチヒの聖トーマス教会、イギリスの湖水地方。。。
行きたいところはまだまだありますが、
上の3カ所は、死ぬまでに一度は行ってみたい場所ですね。。。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2008年11月 9日 (日)

大好きな季節がきました

私のすんでいる街は、あらゆる季節を最も美しく感じられる場所
私はそう思っています。

春は、黒々とした森のあちこちに真っ白なコブシの花が慎ましやかに、
続いて桜と梅が華やかに咲き乱れ

夏は、さわやかな日差しのもと、ハマナスやリンドウなど色とりどりの花が
野山を美しく彩り

秋は、もうすでに高くまで昇ることのなくなった太陽の
温かな赤みを帯びた光に、紅や黄色の美しい紅葉が映え

冬は、ふんわりと降り積もった雪が、全ての音を静かに包み込み
街全体が静寂に包まれる

日本各地だけでなく海外もあちこち旅しましたが
今住んでいる街ほど、四季を美しく感じられる街は
ないように思います。

今、家の外は晩秋の嵐が吹き荒れています。
裏山はもう雪で真っ白。あれだけたくさんいたシマリスも
どこかに隠れてしまいました。
今年もまた、雪の季節がやってきました。
一年で一番厳しい、そして一番好きな季節の始まりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

マタイ受難曲~私の大事な楽曲

最近、少しでも時間があると、CDを聞いていることが
多くなりました。

手にすることが特に多いのは、
「マタイ受難曲」。
バッハが作曲し、クラシック音楽だけでなく、西洋音楽の最高峰とも
言われることのある楽曲です。

「マタイ受難曲」は、キリスト教の聖書の世界でも、
イエス・キリストがゴルゴダの丘で迎えた最期に
焦点をあてたものです。

十字架を背負い一歩一歩と死への坂を登っていくキリストが
この楽曲の主人公であることは言うまでもありません。
曲の最初を飾る「来たれ、娘たちよ、われとともに嘆け」では
次第に音階をあげる通奏低音で示されるイエスの歩みと
「ご覧なさい!」の合唱に揺り動かされ、
長調と短調の間で揺らぎつつ悲しみを奏でる演奏で、
息が止まるような感動に包まれます。
悲痛な弦楽器の音色にも胸が詰まりますが、
清らかであればあるほど、悲しみをより際だたせる
美しいフルートの音色。
これまで聞いてきた音楽で、これほど心に食い込んでくる
フルートを私は知りません。

この曲のもう一つの主人公は、イエスを囲む使途たちです。
レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」で、
イエスと食卓をともにしている彼らです。

一度は裏切りながらも、それにより救いようのない苦しみと
後悔にさいなまれ、密告の報酬を泉に投げ捨て
ついに自殺することになる「ユダ」。
自分に身の危険が迫ると、
「私はそのような者は知らない、関係ない」と
イエスへの想いとは裏腹に偽証し、保身をはかってしまった
「ペテロ」
そして、イエスを助け出しに向かうこともできず、
身を隠しふるえていた他の弟子たち。
この曲に描き出されている彼らの姿は、
弱く臆病で卑小な人間の姿そのものです。

しかし彼らはそのまま世から姿を隠し、
逃げまどっていたわけではありません。
イエスの死後、彼らは立ち上がり、まさに自分の生命を懸けて、
布教活動に身を捧げることになります。
人間が本来持つ、死にたくない・痛みたくないという「弱さ」と
自らの意志・大切な人を守るために自分の内なる泉から
湧きわき上がってくる「強さ」
マタイには、それらをかいま見ることが出来ます。

アリア「憐れみたまえ、わが神よ」。
私は、このアリアほど悲しく美しい歌唱を他に知りません。
1939年のメンゲルベルグ指揮、コンセルトヘボゥオーケストラの
演奏では、このアリアが始まると、聴衆からすすり泣きが聞こえたと
いいます。このアリアの前後で歌い上げられている人の弱さに対する
思いのせいでしょうか?

終結合唱「われら涙流しつつひざまずき」で、
埋葬されるイエスと彼に告別の言葉を掛ける弟子たちとともに
マタイ受難曲は劇的な最期を迎えます。
3時間を超える、音楽史上屈指の大曲の終結です。
「我らは涙を流しながらひざまずき
 墓の中のあなたに呼び掛けます。
 お休みください 安らかに」
何度も繰り返される「おやすみなさい」
全体は悲痛な単調で流れますが、なぜだか不思議な安らぎを
感じます。
信じるもののために戦い続けた者に訪れる、最期の安らぎ、
でしょうか。

マタイ受難曲は、西洋の音楽家を魅了しつづけてきた曲だけに、
さまざまな音楽家が、さまざまな解釈で演奏してきています。

バッハの死後すっかり忘れ去られていたこの曲を、
メンデルスゾーンが歴史的な復活公演により歴史の舞台へ
引き戻したのが、バッハの死後約80年経った1829年。
残された記録や音源から見る限り、マタイはその時代の
音楽家たちによりさまざまなアレンジを加えられ、
繰り返し取り上げられてきました。
近年は、バッハ時代の楽器を使い、バッハ時代の演奏法や
曲の解釈を学術的に追求した「古楽」スタイルが
全盛を迎えています。
レオンハルト、アーノンクール、エリオット・ガーディナー
などの演奏がそれです。
駆け抜けるようなテンポで演奏されるマタイは、
確かにバッハ時代にバッハが意図していたものかもしれません。
音楽を学問として取り上げるのであれば、
それらが本当の「マタイ」である可能性は高いでしょう。

それらと対極にあるのが、モダン楽器、
すなわち近代~現代の楽器と解釈で演奏されるマタイです。
カール・リヒター指揮、ミュンヘンバッハ合唱団の1958年演奏、
クレンペラー指揮の演奏
そして、「異形のマタイ」とでも言いたくなるほど、
劇的な感情表現に足を踏み入れた、
メンゲルベルグ指揮、コンセルトヘボゥオーケストラによる
1938年演奏。
多かれ少なかれ、19~20世紀ロマン派の影響を受けた
それらの演奏はバッハが当初意図したものとは
確かに違うかもしれません。

ただ、私には、西洋音楽が気づきあげてきた重い歴史と、
演奏者の素直な内なる感情・感性が、それらのマタイには
色濃く染み込んでいるように思えます。バッハ以降、もしかすると
聖書が成立して以降、人々が脈々と受け継ぎ見つめ続けてきた
ものを具現化するとこうなるのでは、と思うのです。

マタイ受難曲の世界に身をゆだねたくなったとき。
そういう時は必ずと言っていいほど、日々の生活や仕事・人間関係で
傷付き、精神的に救いを求めたくなった時なのですが、
私は迷わずリヒターの厳しくも神々しく、凛とした演奏を
手に取ります。
そして、明日・将来への活力を取り戻すことができるのです。

マタイ受難曲、どんな励ましの言葉や格言よりも、
私を力づけてくれる音楽であることは、間違いありません。
これまで生きてきて、出会えたことに最も感謝する音楽の一つです。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008年11月 3日 (月)

「僕は約束した。僕は弾かねばならない。。。」 ディヌ・リパッティ

「僕は約束した。僕は弾かねばならない。。。」
ピアニストであった、ディヌ・リパッティが、生涯で最期の演奏会直前に残した言葉です。
------------------------------------------------------------------------

ディヌ・リパッティは、第1次世界大戦が終わった1917年に、ルーマニアに生まれたピアニストです。パリ音楽院に留学し、ピアノをコルトー、指揮法をミュンシュに、作曲法をナディア・ブーランジェに学びました。ショパンやモーツァルトを中心に名演を残しましたが、悪性リンパ腫に侵されてしまいました。長年の闘病により体力を消耗しつくし、1950年に敗血症で亡くなりました。わずか33歳。
リパッティのピアノは、透き通るような瑞々しさ、気品に満ちた高貴さ、繊細さで語られることが多いのですが、私は必ずしもそう思いません。特にショパンのワルツには、悪戯っ子のようなやんちゃさも見え隠れします。死から50年以上経っても彼のピアノが人々から忘れ去られずに居るのは、彼のみが持ち得たそうした唯一無二の魅力故でしょう。

レコード技術がようやく発達し始めた1940年代後半(大戦終結直後)には、彼の体はすでに病魔に冒されていました。すでにスタジオ録音に耐える体ではない。。。誰もがリパッティのピアノ録音を諦めていた頃、画期的な新薬であるコーチゾンが開発されます。コーチゾンにより、リパッティの病状に一時的な小康状態がもたらされます。1950年5月のことです。これを見た主治医はすかさず、「リパッティのピアノ演奏録音を至急行ってほしい」と、レコーディングプロデューサー(EMIのウォルター・レッグ氏)に連絡、レッグ氏はすぐに最新の録音機材全てとともにジュネーブに飛びます。
なぜこれほどまでに皆急いだのか?リパッティのピアノ録音を遺す最後のチャンスだったからに他なりません。コーチゾンをもってしても、小康状態が維持できるのはせいぜい2ヶ月程度。残された時間はほとんどありません。しかもコーチゾンは大変高価な新薬であり、簡単には必要量を確保することはできません。それを知った世界中のファンや音楽家(メニューイン、ミュンシュなど)から寄せられた資金によりコーチゾンの必要量が確保されます。ショパンのワルツ全14曲、バッハ、モーツァルトの作品群がわずか10日足らずで録音されました。

その後もリパッティは精力的に音楽活動を続けますが、コーチゾンの薬効はほどなく切れることとなります。そして、1950年9月16日、リパッティがおこなった人生最後の公開演奏である、「ブザンソン告別演奏会」が開かれます。

リパッティの病状は末期を迎えていました。余命をさらに縮める事になると、主治医はコンサートを中止するよう必死の説得を続けます。しかし、リパッティの意志は固く、説得に全く応じません。「私はファンに約束したのだ。その約束を守る事は私の天命なのだ」「僕は約束した。僕は弾かねばならない。」と繰り返すばかりだったそうです。ジュネーヴから救急車のような寝台車でブザンソンに到着したとき、彼は気を失っていたといいます。息をすることも困難で、開演一時間前には意識が朦朧とするなか、鎮痛剤を何本も打って、彼はコンサートに臨みます。リパッティ本人だけでなく、家族、聴衆、すべての人が最後の演奏会であることを知ったうえでの演奏会です。

開演時間、リパッティは自分で歩くこともままならぬほど衰弱していながらも、夢遊病者のように小さな足取りでピアノに向かい歩んでいきます。そして、彼が愛したバッハ、モーツァルト、シューベルト、ショパンのワルツを演奏していきます。死に瀕し激痛に絶え間なくさらされている人間とは思えないほど、美しく、凛とした演奏です。しかし、リパッティの体はすでに限界を超えていました。残された力を全て振り絞っても、演奏会プログラム最後の曲目であるショパンのワルツ2番「華麗な大円舞曲」を弾く体力は残っていませんでした。ついに力尽きたリパッティは、最後の1曲を残して舞台から運び出されます。

会場に詰めかけていた人々はだれもが、これがリパッティ最後の演奏だと悟ります。しかし、リパッティの意志は、これをもって最後とすることをよしとしませんでした。
やがて、リパッティは自力で舞台に歩いて戻ってきます。そして、ピアノに座ると、バッハのコラール「主よ、人の望みの喜びよ」を静かに弾きあげ、舞台から去っていきました。突然のことで、このコラールは録音されませんでした。この場に居合わせた人たちのみが、この演奏について知り得たことになります。いかなるCD・レコードにもこの演奏は残されていませんが、これでよかったのかもしれません。

その後、リパッティはジュネーブの自宅で静かに死を待つこととなります。起き上がることも、話すことすら困難な中、死の30分前、ピアノに向かって、ショパンの前奏曲(何番かはわかりません)と、バッハの『シチリアーナ』を弾き、やがて敗血症による大量出血、そして息を引き取ったと言われています。1950年12月2日のことでした。

--------------------------------------------------------

リパッティの妻である、マドレーヌ・リパッティによる文が残されています。

『ブザンソン告別演奏会の録音によせて』

この感動的な録音を聴くとどんな人でも無感動でいるわけにはいきません。
それは1950年9月16日、ブザンソンで行われたディヌ・リパッティの最後のコンサートにおいて録音されました。短かったけれども、輝かしかったあの人のキャリアの最終点でした。あの人は2ヶ月後の12月2日に33歳で死ぬ運命にあったのでした。
大変病気が重かったのに、あの人はブザンソンで演奏するという、この約束、この契約を守りたいと念願していました。それほど、「約束に背きたくない」というリパッティの決意は固かったのです。
あの人にとってコンサートは音楽に対する、あの人の愛の誓いでした。それを、あの人は「重大なこと」であると考え、音楽を通して、あの人の演奏を聴きたがっていた大勢の人々に喜びを与えたいと願っていました。
あの人はすっかり衰弱して憂慮すべき状態でコンサートの夕方、ブザンソンに着いたので、ピアノの手ならしをするために、演奏会のサル・デュ・パルルマンへ行くのさえやっとのことでした。
ホ テルに戻りますと、あの人に付き添ってきた忠実な友人でもある主治医がもう一度、思い止まらせようとした程、病状は進んでいました。でも、リパッティは頑 強に「ぼくは約束した。ぼくは弾かなければならない!」と繰り返すだけでした。あの人は元気付けの注射を何本もうたれました。それから、自動人形のよう に、服を着替え、ホールへ連れていってくれる車までゆっくり進んで行きました。階段を上がる事があの人には本当に磔刑場(カルヴェール)のようでした。あ の人は息がつけなかったのですから。失神するのではないかと思いました。
爆発的な喝采がホールに辿り着いたあの人を迎えました。各地から聴きにきた聴衆は胸が一杯でした。
聴衆は死に掛かっていた---本人も死期を悟っていた---この若い天才の最後の演奏を聴くために集まっていたのです。
この録音のおかげで、私たちは今あの人の演奏の特質、あの人の思考の誠実さ、あの人の解釈の妥当性を判断することが出来ます。
一瞬だけ弱みを見せましたが、何という感動的な一瞬でしたでしょう。
---あの人にはもはや14曲のワルツのうち最後の1曲を弾く力がなかったのです。
でも、ショパンでさえ、それを許してくれた事でしょう。
疲労の為、くたくたになって、息を切らせながら、それでもリパッティは彼にとって祈りであったバッハのコラールを弾く勇気を持っていました。
そのコンサートにいた人なら、あの心を掻き毟るような訣別を忘れる事はできないでありましょう。
しかし、「あの死滅した星が、その光輝によって尚、我らに光を与えてくれるように」リパッティの芸術は私達の心に生きています。
その托(ことづけ)はいつまでも残る教訓であり、喜びなのです。

「ディヌ・リパッティ 伝説のピアニスト夭折の生涯と音楽」

Copyright MADELEINE LIPATTI
-------------------------------------------------------------

「ブザンソン告別演奏会」でのリパッティの演奏は、最後のコラールを除き、現在、CDで聞くことができます。

「ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル」(EMI)

素晴らしい演奏には間違いありませんが、直前におこなわれたスタジオレコーディングに比べると、特にコンサート後半でミスタッチや揺らぎがあることは否めません。だからといって、この演奏の価値が劣るわけではありません。「奇跡」とか「感動」というような言葉では決して言い表せない、人間の意志の力がなしえることのできた所業と、それが人に与えることのできる勇気、それを思わずには居られません。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年11月 1日 (土)

復活へ向けて、やっと動き出しました。。。

前のブログでデータを飛ばしてから半年。。。
ようやっと、復活目指してブログ再立ち上げしました。
とはいっても、データは消失してしまったので、これまで書きためた
文章もすべて新規に書き起こさないといけないのですが。。。。

気長にお待ちくださいね

| | コメント (1) | トラックバック (0)

トップページ | 2008年12月 »